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みんなに贈りたい祖母の遺言

私の祖母は、小学校の教師だった。

女手一つで私の母きょうだいを育てた。



祖母が亡くなったのは、私が中学2年のクリスマスイブだった。
癌に侵されながら最後まで、病院に入院するのを拒み続けた祖母は
手術が終わるたび、すぐに退院して家で療養していた。


11月に、私達きょうだいに祖母から手紙が届いた。
祖母は、隣県に住んでいたのだが私の家から40分で行けるので
当時私の母は、看病に足繁く通っていた。


祖母の手紙には、そのことで私達が留守番になり淋しい思いを
させている事を詫びる言葉と、
これから、私達がしっかりと自分の足で人生を歩んでいくよう
激励の言葉が並んでいた。

祖母は、達筆な人だと記憶しているが
その手紙の文字は、震え、判読するのにとても時間がかかった。
祖母が、ペンを握る力さえ失っていたにもかかわらず
最後の力を振り絞って書いた魂の手紙だった。


最後に、私だけに宛てた文面があった。
私は、彼女に叱られてばかりだった(門柱でウンチしたりね)
でも、私の天真爛漫な性格と優しさは、私の武器であり一番の宝物。
あなたは、私の孫の中で一番素敵な大人に成長するでしょう。
と記してあった。


人生でつまづく事


たくさんあるでしょう。


色んな選択肢に悩むこともあるでしょう


自分が選んだ道を後悔することもあるでしょう


でも、人生に「もしも」は、ありません。


それは、私達人間はたいていの場合


最善の選択を知らず知らずのうちにしてきている


からです。


自分の歩む人生は間違っていません。


すみれの選択は間違っていません


どうか、自分を信じて生きていって下さい

最後にそう記し、字が震えてしまいごめんなさい...とあった。


祖母はこの手紙をどうしても自分の手で投函したかったようで
同居しているお嫁さん(私の伯母)の目を盗んで
健康な人でも、片道10分はかかるポストまで
歩いて行き、帰り道にとうとう倒れてしまったという。


それから数週間後に祖母は他界した。
彼女は定年まで教職を続けてはいなかった。
教職を離れて30年近くは経っていたと思うのだが

信じられないほどのたくさんの教え子達
どこまでもどこまでも続く花輪...

彼女がどれだけ人に慕われ、尊敬されていたか
私はそこで初めて知った。


彼女の遺言は、8人の孫のうち私だけに宛てられていたそうだ。

ただただ生きにくい世の中と闘い
八方ふさがりだった当時の私の心を見透かしていたのだろうか。


それとも、自分に重ねて私を見ていたのだろうか。


ともかく、私は今まで何度この言葉に励まされ
自分を取り戻したかわからない。

この手紙は、一度読んだきりで目を通していない。

大切に保管してあるが、もう一度読み直すのは無理だ...
だから、祖母の言葉そのままではなかったかもしれない。
多分もっと、素敵な表現で書かれていたはずだ。


私のブログに来てくださった、私の大切な人たちに
私のことばで、この言葉を贈ります。


私からのささやかなお礼です。



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いつものコスプレ

私は22歳で結婚した。初めに伝えておくが、

ヤンキーではない


マルが授かるまで4年。
(私は子宮内膜症で、不妊治療してました)

その4年間は、友達も出来ず職場と家の往復だったのですが
旦那の妹が、私の2つ歳下でよき私の遊び相手となってくれました。

近くに住んでいたので、旦那の留守の時に泊まりにきてくれたり
しょっちゅう遊びに来てくれていた。
彼女はお笑い好きで、話も上手。
妄想好きで、二人で妄想しては機関銃のように話していた。

いつの頃からか
遊びに来た彼女を私が面白おかしくお迎えするのが定番になっていた。
凝り性で、暇だった私は一日中

「今度のネタは何にしよう...」と考えていた。

ある日、そのような事を考えながら駅に着き

踏み切りの前に立つと
踏み切りの向こう側の岩に


山伏がいた



岩のうえに腰掛けて、汗を拭く山伏。



まっ..まぶしいっ!


山伏は輝いていた。

次は、山伏で行こう!

私に迷いはなかった。
岩に座り汗を拭く山伏...これは、よい作品ができそうだ。

妹が来る週末までに
私は紙で岩を作り、小さな椅子に貼り付け

山伏の頭に載っている小さな帽子もフェルトで作り

肩からぶら下がっている
ポンポンのようなものもビニール紐で作った。

衣装は、上は着物の肌着。下は白い生地を簡単に縫い合わせて
モンペのようなモノを作った。

そして、白い足袋を履き、足首には包帯をグルグルと巻いた。


準備は万端。


私は恐ろしいほど、山伏だった


「もうすぐ行くね!」

電話があった。実は電話が来る前には着替えていたので
あとは、玄関で岩の椅子に座り汗を拭けばいいだけだった。

私の心は躍っていた。

どんな顔するだろう...
絶対に外すとは思えなかった。

私にとって、最高のコスプレネタだった。

階段を上る音が近づいてくる。

私の鼓動は高まった。
ちょっと震えた。

そして、馬鹿みたいな自分に吹き出しそうになるのを必死に抑えていた。

「ピンポ~ン」

幕は上がった。

この一週間の私の全てを出し切らなければ!



開いてますぞ!どうぞ...


男の声色を使い、できるだけ厳かに言った。

私の声は低い。かなりの出来栄えだったに違いない。


こんにちは~



ドアが開き、声が聞こえた瞬間...私は急いで逃げようとした。



新聞の勧誘だったのだ


遅かった...。
もう、どうしようもなかった。

新聞屋は

明らかに目を見開いたが

何事もなかったように

「来年からの契約、お願いしますよ~」

と、山伏に言ってきた。



私は動揺を隠せなかったが

妹と鉢合わせになると一週間の努力が無駄になるので


主人に相談してみないとわからないし


もう、お客さんがくるので時間がないことを伝えた。


(そのふざけた格好で、主人もお客もないもんだ)



新聞屋は、引かなかった。





他に、どこか考えてる



新聞あるんですか?




山伏にしつこく契約を迫る。






とにかく、今日は...



本当に忙しいんです




この辺だっただろうか...上に住むおばちゃんが、階段を降りて来た。

うちの玄関が全開だったので、新聞屋のおやじと話す山伏の姿が
視野に入り、不思議に思ったのだろう...

そのまま少しバックして、また確認の為にこっちを
覗き込んでいる。

私は急いで玄関の脇のトイレ側に隠れて、おばちゃんが
通りすぎるのを待った。

再び玄関に

もう!今日は無理ですから!

と...強めの口調で戻って来たとき、

新聞屋の後ろに妹が立っていた

妹は山伏を見るや否や、その場に崩れ落ちて笑い転げた。
その笑い声はマンション中に響き渡り、隣の棟の人が
何件も、笑い声の犯人をみつけようとベランダに飛び出してきたり、
窓を開け身を乗り出し、キョロキョロ見渡した程すごいものだった。

笑っている妹を見て、私までどうしようもなく可笑しくなってきた。

すみれさん、その格好で

なに普通に話してんの~??



ますます笑い転げる妹。

私もうずくまり、泣きながら

もう話すことが出来ないくらい笑っていた。

新聞屋は、しばらく様子を見ていたがいつの間にか消えていた。
そして、そのおっちゃんは二度と勧誘に来ることはなかった。




忘れ過ぎ!!

私は、忘れっぽい。忘れっぽいどころか何もかも忘れてる。

ほら...よく、鍵がない!とか、お財布忘れた~!
とか、そんな可愛いレベルのモノではない。
っていうか、それは毎日。


私は、マルが幼稚園の時、参観に行って

幼いモモを園に忘れたことがある!

それも、2度。

忘れられた事に気がついていないモモもかなりすごいが....。




よく




2階に上がったら



何したいのか忘れちゃった~♪





って可愛い忘れんぼさんがいるが

私の場合...



2階に上がる前に、すでに忘れている。


うちには2階がないが。




それに、トイレも忘れる。
めちゃくちゃ、トイレに行きたかったはずなのに
違うことに気をとられているうちに...忘れる。




ちょっと前に、ひどい忘れぶりを発揮した。

なんと...



Tシャツを着ている途中で


着替えることを忘れたのだ!!







これは、あんまりだった。




Tシャツに首を入れ、左手を通したまではいいが





右手を通すのを忘れていた





それは、お風呂上り。
私は夜、ブラジャーはしませんの♪おほほ~


って...




右乳丸出しかいっっ!!


(下品な表現、失礼致しました)



私は、その日内職に追われていた。
子供を寝かせた後、仕事中に汗だくになったので
簡単にシャワーを浴びた。
そして、残りの仕事をいそいで片付けようと必死だったのだ。

びっくりしたのは旦那!


ただいま~



おかえり~



こっちを見て固まっている。




お前?わざとやってるんか?




なにが??



私が、わざとやっている訳でもなさそうだと思ったのだろう。





お前、なんかスースーするとか



ないんか?





な~に~が~!!





はっきりしない人が一番嫌いや!遠まわしに言うな~!
心の中で悪態をつきながら、ご飯の用意をしようと立ち上がった。

その時すでに旦那は、しゃがみ込んで肩を震わせ笑っていた。




「ヒヒーン!ヒヒーン!」

(悔しいので笑い声を馬にしてやる!!)
わからない人は、この記事を参照してね





お前、前からおかしいと思って

いたけど、やっぱおかしいって!



なんでそうなるのか(ヒヒーン)

凡人にわかるように説明してくれ!(ヒヒーン)


お前はもしかして、ズボンずり下げ男みたいに

それがトレンディやと思ってんの??

(ヒヒヒーン)





旦那はそう言うのがやっとだった。

何がトレンディよ!ばっかじゃない?

今時そんな恥ずかしい言葉
誰も使わんって。


...使わんって..



その辺で私は気づいてしまった。
...笑いたかった。

自分の馬鹿さ加減に呆れて思いっきり笑い飛ばしたかった。

だが、次に出た私の言葉。






そうや!わざとやってんねん。



暑かったから!




忘れてたなんて、死んでも言うもんか!

あまりの剣幕に、笑うのをやめた旦那は
ごはんを食べながらも、笑いがとまらんらしく




ヒヒン、ゴクッ..ヒヒヒーンゴクッ..

を繰り返し、とうとうシャックリしてた。





私の両親

子供の頃から、私の実家は様々なお客さんがいた。
父の会社関係の人や友人、母の友人、近所のおばちゃん...
ここまでは、普通の家でもあることだろう。

ここに、宅配便のおっちゃんやお兄ちゃん、行商のおばちゃんや
新聞の集金のおっちゃんが加わる。

段々、雲行きが怪しくなってきた。

更に、ネパール人が1ヶ月同居、韓国人やベトナム人...
うちでは国際交流も忘れない。

そして、更に...巨人軍のピッチャー(超有名人)や、某プロレスラー
4人(こちらも、誰もが知る人)をもてなしたこともある。

とにかく、人がよく出入りする家だった。

母のお得意のセリフは
「上がっていって~」
「ご飯でも食べていって~」

父も同じだった。
父の会社の、単身赴任の人や、独身者は毎日のように
うちでご飯を食べていたし、父は12年程前に病気になり
会社を辞めたのだが、それは未だに続いているのだ。

そして、私の通っていた軍隊小学校の私達きょうだいの担任は
みんな新任で若かった。
弟が卒業するまで、熱い男を含め、色んな先生が登場した。
熱い男以降の先生に関しては、母は行事ごとにお弁当まで作っていた。
弟や私の友達が10人泊まろうが、母は喜んでもてなしてくれた。

それが当たり前の家で育ってきた私には、不思議に思うことも
なかったし、うちの両親が人がいいなんて思ったこともなかった。

旦那と結婚して、帰省した際に
ベトナム人のお客さんが10人ほどいらしてた時に
うちには色んな人が来るのだと今までの経緯を話すと
旦那が腰を抜かすほど驚いていた。


そんな家ありえへん


確かに、ありえないのかも知れない。
私もそう思うようになってきた。

自分のことより、他人のことを一番に考える人達だった。

先日も電話の途中

「今からご飯だから、食べていったら~」と母の声。

相手は、毎日仕事で来る宅配便のお兄さんだった。
忙しいって断わられてたけど(笑)

この両親と私は、数え切れないほどぶつかって来た。
少しでも遠くに行きたい一心で、東京へ出た。
そこで旦那に会い、関西へ嫁いだのだが私は、内心有頂天だった。
両親のことが嫌いだったわけではない。
むしろ大好きだったし、会話や笑いの絶えない家族だった。
なんて説明したらいいのか...適当な言葉が見付からないが
若かった私は、何も考えていなかったのでしょう。

帰省の度に、一回り小さくなり、まるで玉手箱を開けたかのように
変わっていく両親。
私は、この人達に何をしてあげられたのだろう。
気苦労や、迷惑ばかりかけて来たことを悔やむばかり。

世間を知る度に、子供が成長する度に
どんどん尊敬の念が深まって行く。

いつか、言いたい。

私を産んでくれて、人一倍苦労して育ててくれてありがとう。




サンタクロースの正体

サンタクロースを何歳まで信じていましたか?

私は、小学校5年生まで信じていました。

毎年枕元にある、お菓子入りのブーツが
イトーヨーカドーの袋に入って、戸棚にあるのを見つけても
別に不思議と思ったことがなかった。
ブーツに、イトーヨーカドーの値札やシールがついていたら



サンタさん、ヨーカドーで買物してきて


くれたんだ



なんとも間抜けな話であるが、もっと間抜けだったのが
私が事実を知った出来事である。

小5のクリスマス。
私は確かに寝ていた。
子供の頃の私は夢遊病、夜驚症など睡眠障害があり
眠りは浅かった。

暗闇の中で両親の囁くような話し声が聞こえる...



おい!駄目だ~!すみれが起きてると..父の声。

いや~私は寝てますよ。
でも、あなたの声はなんとなく聞こえています..私の心の声。

そこで、母が信じられないことを言った。


ああ...大丈夫、大丈夫!この子

いつもこうだから。どれどれ...あ!ちゃんと眠ってるわ




お前..!よく見てみろ~

父が私のベッドに近づいてきた。



絶対に起きてる。なあ、すみれ。

返事していいぞ!




なんて答えればいいんだろう...
私は寝ているのだが、声は聞こえている。

目はつぶっているのだが、なぜ父は私が起きていると思うのだろう。

次の瞬間その疑問は解決。

父がいきなり笑い出した。
初めは声を押し殺すように笑っていたのだが
笑い声はだんだん大きくなっていき、しまいに母まで笑い出した。


ちょっとだけ、目を開けて寝る人が

いるのは知っているが、これは開けすぎだろう!!

普通に...ウプッ..グハッ(笑)起きてる時と変わらない。



そうなのよ。
あたしも、いつもこの子起きてるんじゃないか
って思うんだけど(笑)



母が笑いながら近づいてきて、プレゼントを枕元に置いた。

そして二人の話し声は遠ざかっていき
最後に母が、

でも、眠っているかどうかの見分け方がある...とか言っているところで会話は完全に聞こえなくなった。

その頃には私は完全に起きていた。


二人が出て行って、最初にしたことは



自分の目がどれだけ開いてるか確認

すること
だった


そっと自分の手を当ててみた。
よくわからなかった(笑)

そして、枕もとのプレゼントを確認し、
頭の中を整理した。

サンタクロースの正体よりも
自分がものすごく目を開けて寝ている事実に
唖然としていた私であった。



サンダルでの登校

ここ数日、ずっと記事にしようと思っていた事がある。
でも、書き始めると別の事を書きたくなってきて
なかなかアップ出来ずにいた。
すると...マルが

おかーさん、聞いて~聞いて~!


マルな、実はな~間違ってサンダルで


学校行ったことあんねん!ぐふふっ




わたしゃ~びっくりしました。
だって、私もちょうどその失敗を
記事にしようとしていたんですから。


「ありゃ~やっちゃた?(笑)体育はなかったの?

みんなに笑われなかった?(笑)」

そんな事を聞きながら、やっぱり親子だわ...と実感した。


でもね..マルちゃん。

お母さんは

あなたより、更にレベル高いよ!


私は、武勇伝を語った。



あれは、お母さんが小学校1年生の時でした。
お母さんはなんと...




右足にお父さんのサンダル

左足にお母さんのサンダルを履いて

学校に行ったことがあんねんで!


しかも、お母さんはそのままバス停に歩いて行って
バスを降りて学校へ歩いて行く途中に上級生に


うわ~!こいつ!変なもんはいてる

って笑われるまで気がつかなかってん。


おじいちゃんのサンダル、マルも見たことあるやろ?
あんなに大きいサンダルはいて、しかもおばあちゃんの方は
ちょっとだけヒールがついててん。

普通は立っただけで気がつくのになあ...
左右の高さが違うんやから、すぐに気がつくよなぁ?

でも、お母さんは全然気がつかなかったんだわ。

学校についたらな、皆が先生に

すみれちゃんが変な靴はいてきた~!


って言いつけたから、先生がお母さんの靴箱見に来てな



お前、よくこのまま

バスに乗ったな~

しかも、両方右足用のサンダルじゃないか!

よく歩けたな。



って、すごく笑われてん。
そして、このままじゃ帰れないからってサンダルを
袋に入れてくれて

「帰りは上履きで帰りなさい」
って言われてんで~。

お母さんってマルよりすごいと思わん?

マルはゲラゲラ笑っていた。


追記:私は、聴覚や嗅覚が普通以上に敏感な分、触覚が鈍感なのかな...
と感じることがある。
例えば、車の座席に誰かの鞄や、荷物があったとする。
私はその上に座っても、全く荷物に気がつかない事が多い。
画鋲の上に間違って座った事があったがその時も気がつかなかった。



しかし、このサンダル事件の後は、よくいじめられた。

変なヤツ~!って、乱暴な男子たちに体操着袋でバンバン殴られた。
昔って、ちょっとした失敗がすぐにイジメにつながったような気がする
今ほど陰険じゃなかったし、ターゲットはコロコロ代わっていたように
思うが、今ほどお笑いが浸透していなかったし、自虐で笑うとか
ご法度みたいな風潮があったような気がする。
うんちを学校でしてただけでからかわれたり(笑)

アイドル全盛の時代...私のような変なヤツはなかなか受け入れて
もらえなかったな。

でも、私ってほんまに面白いヤツだったな~
今の私から、7歳の私に

あんたって、最高に

面白いわよ!いいキャラしてるわよ!

がんばれ!がんばれ!

って、エールを送ってあげたい。




恐怖のボットン

私が、軍隊式の小学校に転校したのは3年生の時で
それまでは街の(この言い方田舎っぽい)
小学校にバスで通っていた。

なぜ、遠くの学校にわざわざ通っていたのかと言うと
軍隊小学校が木造校舎でトイレがボットンだったのである。

私は、ボットンが怖くて怖くて仕方がなかった。

母の実家がボットンで
私はよく泊まりに行ったがそのトイレを使うことができなかった。

では、どこで用を足していたかというと...

もちろん外だった。

庭のちょっとした家庭菜園の隅が
雨が降ろうが雪が降ろうが私のトイレだった。

ある日の事...

外から帰ってきた叔父が、私の母に血相を変えて何か訴えている。
母は見る見るうちに怒り出し

こら~!すみれ!ちょっと来なさい!


恐る恐る近づくと、いきなり母のげんこつが飛んできた。



あんた!ここの家の門柱にウンチしたでしょう!!


門柱が何かはわからなかったが、確かに覚えがある。
門の両脇にある、石でできた柱に登って用を足した...


あんたって子は!
もうやっていい事と悪いことの区別がついてもいい歳なのに...!

母は怒り心頭だった。

私は、何故怒られているかは理解できたと思う。
やっていいことと、悪いことの区別もできているつもりだったのだが
こういう突飛な行動をしてしまうことがあった。

私は、なぜそこで用を足したかというと、私なりの理由があった。

いつもの畑が肥やしの臭いでとても臭かったことと
家の裏手に行ってしゃがんだら
ヘビの穴みたいなものを見つけたのだ。

私が用を足している時にヘビが出てきたらどうしよう!!
と思ったら、家の敷地内の地面ですることは出来なかったのだ。

でも、それを子供の私はうまく説明できなかった。

説明した所で、大人たちが納得するわけないって
今の私ならわかるけどその時の私は
説明すればわかってもらえるのに何て言ったらいいか
わからないもどかしさで、パニックになった。

すごく悔しくて泣きながら喚き
壁にドンドン頭をぶつけたように思う。

そして、そんな私を母は引きずり髪を引っ張り
棒のようなものでお尻を何度も叩いた。

あの時の、親戚中の唖然とした顔は今でも目に焼きついている。

汽車の中のボットンが私には一番の恐怖で
あの大嫌いなウネウネした汽車の繋ぎ目と
ガッタンゴットンの大音量の場所にあるトイレで
用を足すことはとうとう出来なかった。

とにかく殺されるほどの泣き声で暴れたらしい。

こんなことがあったので
(門柱事件は、私が小学生の時の話だが)
私がボットンで用を足すことが不可能であると判断した両親は
街の小学校へ入学させた。

私の絶対に出来ないことを認めてくれて
守ってくれたと今では両親に感謝している。



笑いすぎ!

中学生、高校生の頃
どうしてあんなに色んな事が可笑しかったのだろう。

笑いすぎてお漏らししたことありますか?

中学、高校とそれぞれ1人ずつ
私の目の前でお漏らしした友達がいます。

まずは、高校の時の話。
とても怖い先生がいた。
誰もがその先生を怖がり、授業中身動き1つできなかった。
私と友達は廊下でその先生を見かけた。

「すみれちゃん、あの先生に何かしてきてよ!なんか面白いことしてきたら千円あげる。」

そんなこと、普通の神経なら出来っこない。

友達は、私が絶対にする訳ないと思って
軽い冗談のつもりで言ってみたのだ。

「そんなこと、一万円もらってもできないよ!」

私が、そう答えると思っていたのだ。

でも私は・・・・・・・


「うん。わかった~!でも千円いらないよ~。ちょっと待っててね♪」

そう答えて、恐ろしい先生に背後から近づいた。

そして...



誰~だ~!!

とその先生のメガネの上から、目隠しした。




う~ん誰かな?


すみれちゃんかな?




などと、答えるわけなかった...

華麗なる誤算...


鬼教師は思い切り、目を覆っていた私の手を振りほどき
ズレたメガネを直しながら、無言で私を睨んでいた。

先生が、何か言おうと口を開けた瞬間

「あ!人違いでした~ごめんなさ~い」

と、あまりの恐怖に嘘をついてしまった。
そして、その時見てしまったのだ!

その先生は、笑いをこらえていた


怒りながら、必死に笑いをこらえているのが
私には逆に恐ろしくて
座り込んでいた友達の手を引っ張り、逃げようとした。


でも友達は泣きながら
「ごめん。立てないの!」


え!?どうしたの??


その友達は笑いすぎて、お漏らししてしまっていたのだ。
その後、ノーパンでジャージを履き一日を過ごした彼女だった。

次は、中学の時。夏休みの部活に行く途中での出来事だった。


若い女の人が、犬を連れて散歩していた。
私の友達が大きな声で

みて!すごい靴下はいてる!



その女の人は、蛍光の黄緑色で赤いストライプの入った
ものすごく眩しい靴下を履いていた。

私は、シーッ!聞こえるって~!と言ったが
その靴下の強烈さに目が眩み思わず吹き出してしまった。
その後はもう立っていられず
しゃがみ込んで笑いをこらえていたのだが
その女の人がすれ違いざまに


人がどんな靴下履こうが勝手だろ!!


って怒鳴ってきたのが、余計におかしくて
二人で涙を流して笑った。
その時、友達が漏らしてしまったのだ。
一瞬にして、笑いは消えた。



「部活いけないじゃん。どうすんの?」


その日は雨だったので、水溜りができていた。
この中に入って、ジャージ濡らしてごまかせば?
私が言うと、友達は水溜りに座ったり、うつ伏せになったりして
内腿側だけ濡れていたジャージの全体を濡らすことに成功した。

「でもすみれちゃん、こんなに濡れていたら部活なんてできないよ」

部活を休むなんて事は、考えられなかったがその時点で、すでに
遅刻だったので、遅刻のペナルティも面倒だった。

「どうする?今日は帰る?」

「ありがとう。すみれ!
帰るにしてもこんなんじゃ1人でバスに乗って帰る勇気ないもん」


あのね...もうひとつお願いが

あるんだ。すみれのブルマ貸して!



え...!?貸してって言われても
私も少しチビッているし、そんなん無理よ!

「ちびってようが、すみれのジャージは濡れてないから、いいじゃん。私はこのままじゃバスに乗れないもん。座席に座れないでしょう?」



じゃ、座らずに帰れば?と言いたかったが

その言葉を飲み込んだ



そして、彼女の剣幕に押され
私はしぶしぶチビッたブルマを貸してあげた。
バスは、夏休みだというのに男子高校生がたくさん乗っていた。

当然、ブルマでバスに乗っている彼女は注目されて

「なんだ~あいつ!」「おい!アレアレ!」
などと指をさされて笑われていた。

自分の停留所に着いたや否や
私にバイバイも言わずに運転手さんの隣で運賃を支払っていた。

なぜか、その日に限って千円札を機械に入れていた。
そして、その千円札は何度も何度もウィ~ンと戻ってきてしまい
また、高校生がドッと笑う。

やっと支払いを終えた彼女は
走ってバスを降り停留所の陰にかくれた。
そして、真っ赤な顔で私に小さく手を振っていた。

私と彼女はその後何年も、事あるごとにこの話をしては
あの若い女の人を笑った罰だよね。と反省した。

私は、彼女が私のブルマを履いて
千円札を崩している姿を思い出す度に
くだらないことでも可笑しく思えたあの頃が懐かしくなる。



思い出すと笑ってしまう話

大人になってからの私の失敗談を
いくつか記事にしたことがあったが
大人になってからも失敗している私...
当然子供の時には当然毎日漫画のような失敗をしていた。

小学5年だったか6年だったかは忘れたが
ある日の学校の帰り道。

私の家は、国道を横断しないと帰ることが出来ない。

私の家の付近には、横断歩道があったが
歩行者用の信号はなかった。
そこで、早く道路を渡って家に帰りたい私は

大きく背伸びして右手を限界までピ~ンとあげて
車が止まってくれるのを待っていた。


私は、小学4年生から現在まで
身長と足のサイズが変わっていない。
とにかく大きな子供だった。

そんな私が、ピ~ンとしている様は
周りからみればかなり滑稽だったに違いない。

みんなニヤニヤしながら止まってくれた。

私は、止まってくれた方に本当にありがとう!
という気持ちを込めて

車に向かって、きちんと正面に立ち、いつも深々とお辞儀をしながら
「ありがとうございました」と、声に出して言っていた。

その日もそこまではいつもと一緒だった。
(ドライバーは早くしてくれ!と思った事だろう...)


しかし...ランドセルが

きちんと閉まっていなかった!



必要以上に、深々とお辞儀をしたのが命取りだった。

私の足元には、教科書やノート
ぐちゃぐちゃになったプリントやハサミ。
シブがき隊やマッチなんかのシールが貼られたミーハーな
缶ペンケースまで、ガラガラガッシャ~ン!!

これを拾い終わるまで、車を待たせるのは悪いと思った。
でも、車は何台もある。
缶ペンを踏まれたらぐちゃぐちゃになってしまうではないか!
そう思った私は、散らばった荷物を拾い始めた。
はじめはまず缶ペン、でも鉛筆と、定規と消しゴムがない。

今思えば、とりあえず目に付くものを拾っていけばいいものを
私は国道の真ん中に座って、ひたすら鉛筆を探していた。
私は大急ぎだったが、待つ方はたまらない。

私をよけて行けば良かったのだが
対向車が途切れなかったのだろう
車はとうとうクラクションを鳴らし始めて
窓を開けて怒鳴る人もいた。

私はその大きな音で余計にパニックになってしまい
何をしているのか
何をしたらいいのかわからなくなってしまった。

近くの商店のおばちゃんが、飛び出してきて
全て拾ってくれて、私と一緒に路肩に寄った。

その時、すみれちゃん危ないよ!
とかそんな事をいってくれたのだと思うが
あまり記憶にない。
ただ、止まってくれた車のナンバープレートだけは、未だに
はっきりと記憶している。

この光景は、思春期から20代後半までは
フラッシュバッグで時折思い出し
嫌な思い出でしかなかったのだが

それ以降は、なぜか嫌な思い出ではなく
私お得意の思い出し笑いに変わってしまった...

綺麗にピーンと伸ばしていれば
車が止まってくれると信じてた事
ミーハーな筆箱。
筆箱と鉛筆はワンセットだというくだらないこだわり。
周りの空気が読めない私。

あの時、私を待ってくださっていた車の方々には
申し訳なく思うのだが
思い出す度自分の馬鹿さ加減に吹き出してしまう私であった。



熱い男に教えられたこと

シリーズ6回目。今回が最終話でございます。

私は、幼い時から厳しく育てられました。
私の行動や、言動が普通の子と違っていたために
私の両親は早いうちに、ちゃんとした教育が必要だと
思ったのでしょう。

私の両親については大変個性的で、特筆に価する人物なので
また別の機会に記事にしたいと思う。

私は両親に考えられない程、縛りつけられていましたし
褒められることなどなかったと思います。

愛情はあったと思いますし、私は今大変二人を尊敬しております。
でも、私はいつも追い詰められて、怯えて、自分に自信など全く
持てなくなっていました。

私が自分に少しずつ自信が持てた時に
やっと人間としての自分の存在を感じました。

それまでの私は
人間に感情があるなどと考えた事もなければ
人間はロボットのようなものだと思っていました。
神様か誰かに動かされているロボットで
痛みも感じないと思っていました。

転んだら痛いのは、私が特別なのだと思っていたのです。
自分の世界しかないと信じて疑わなかった。
自分に自信があるからとかまったく関係なく。

父が帰宅すると
このヒトは父の皮を被ったロボットだ!!
と、いつもビクビク観察していました。

母や、兄弟を守るために私が勇気を出して
正体を暴かなければいけない...
心からそう思った私は隙をみて父に飛び掛り
顎のラインを爪で何度も引っかいた。
仮面が外れると信じていた。

仮面など外れるわけもなく
家族にはアニメか何かの影響を受けていると、笑われた。
そしてふたこと目には「馬鹿なんだから...」
でもそれは、私が小学校高学年まで真剣に思っていたことだった。


熱い男はこんなに、おかしなおかしな私の脳に
マイナスの言葉しか入っていなかった私の脳に

たくさんのプラスの言葉をギュウギュウに詰め込んでくれた。

はじめの頃、私はこの男をおもしろい動物のように見ていた。
当時の私はこのヒトに興味があったが、好きではなかったように思う。

やたらとヒトの目を見て話すことを要求するし
過剰なスキンシップに嫌悪感すら覚えていた。

でも、この男はおかまいなしだった。
外人のように、自分の思ったことをすぐにオーバーに表現した。

一番最初に褒められた言葉を未だに憶えている。


おお~!すみれはピアノがうまいな~!
これから先生のかわりに弾いてくれよ~!
ベリーグッドだよ~!



私は、ピアノが上手なわけではなかった。
ただ、ピアノを習っていたのが私1人だけだったのだ。

このわざとらしい位の賞賛は、恥ずかしいだけで
私の心を動かすことはなかった。
褒められる事になれていない私は
馬鹿にされているようで泣きそうだった。
みんなの注目を浴びるのも最悪でしかなかった。

ただ、私のかたくなな心を少しづつ溶かしてくれたのは
この男の生徒への愛でしかなかった。
口先だけではない、真実の信頼関係ができたからである。

この先生は、生徒と一緒に本気で遊び
本気で喧嘩して、一緒に泣いた。

母の日の作文の時間のこと...

ある男の子が、すすり泣いていた。
母親が蒸発したと、近所でも噂になっていた。

事情を知らずに、作文を書かせた熱い男は
その男の子の隣にしゃがみ「ごめん」と言った。
そして、男の子の手を握り一緒に声を上げて泣いた。

作文は、一応書いたが
その作文を貼り出すこともなければ発表することもなかった。
そして、次の年から
母の日や父の日の作文は書く事がなくなった。

小学校4年生の終わり
3月の終業式に下を向き教室に入ってきた熱い男....

「はじめての生徒がお前たちで良かった」
そういって声を上げて泣き始めた。

私は事態を飲み込むのに時間がかかったが
まわりの友達もみんな泣いていた。
一人一人を褒めて抱きしめ5年生になっても頑張れ!
と励ました。

そして、ありったけの声をふりしぼって



フレーフレー30人!



とエールを送ってくれた。

全員が泣きじゃくり
この男との別れに張り裂けそうな
気持ちをそれぞれに表現していた。




しかし、4月になりこの男が教室に入って来たときは

全員開いた口が塞がらなかった(笑)

さすがに、熱い男も恥ずかしそうだったが
この今生の別れを5年の終わりにも繰り返し
4月になり6年になった私達のクラスにこの男が入って
来たときは失笑の嵐だった。

6年生も終わりに近づいていたある日の事。
私は熱い男にお説教された。

放課後、1人教室で正座をさせられ延々と長い話が続いた。
私は聞いているが
先生のエラがピクピク動く回数を必死に数えていた。

どうやら、私の集中力の無さとコミュニケーションについての
お説教のようだった。

私には協調性に欠ける所があり
人を知らず知らずに傷つけてしまうキツイ所があった。
思ったことをそのまま口にしてしまう。

熱い男が担任になって
私は自分が人間である事を知り
自分以外にもたくさんの血が通った人間がいて
自分の知らない世界がある事を知った。

大きな世界の中にいる一員なのだと知った。

人の悪い部分を見るより
いい所をたくさん見つけた方がいいこと知った。
そして、素直に相手にそれを伝える大切さを身を持って知った。



4年生の頃に比べ
想像もできない位の成長を遂げた私だったが
どうしても感情のコントロールが出来なかったり
周りの空気が読めない。

その時に熱い男が言ったのは...

[すみれは、もともと誰よりも優しい。そして頭の良い子だと思う。
そして、自分の好きな事には誰よりも集中できるだろう?
お前は人を観察してそのモノマネをしたりするのが得意だ!
今の自分が好きか?違う自分に生まれ変わってみようと思わないか?」

断片的な記憶なので、おかしな文になっているがこのような事を
言われた。
私はこの言葉を大人になるにつれ自分なりに解釈してしまった。
私は、女優になればいいのだと...(笑)

今の自分になるまでに、様々な人格を演じてきたように思う。
怒るシーンが台本に無いのだと思えば、怒る必要もなかった。
苦手な場面もこれでクリアしてきた。
あの時に先生が言った一言が
その後の私の人生を楽に運んでくれたのは間違いない。

でも、自分を見失い、自分が存在していないように
感じることもたくさんあった。

多分彼は、私に女優になれとか
多重人格になれとか言いたかった訳ではないと思う。
でも、この一言がなければ私は
感情をコントロールする方法が
わからないままだったのではないかと思う。
この熱い男に関しては、賛否両論あるとは思うが、私にとっては
かけがいのない、恩師なのである。


追記:私達は未だにこの先生を慕っている。同窓会ではタイムカプセルを掘り起こし、またしても号泣&フレーフレーお前ら!をみせてくれた

男子達は家によく飲みにいくらしい。
今では、ダンボールの家具はなく立派な家で
可愛い奥様と2人のお子様と幸せに暮らしている。
一日中体育や余計な遊びをしていた私達だったが、歴代卒業生の中で
進学校へ進んだ割合が多いらしく、地元では伝説の学年と語り継がれているそうだ。

熱い男は25年前と何も変わっていない。
彼の能力と、出身大学からしても出世は間違いなかったはずなのに
未だに、僻地ばかりを渡り歩き、出世とは無縁とのこと。
でも、その型破りな教育法は少しばかり知れ渡り
新聞で見かける事もある。

今では、体罰も過剰なスキンシップも出来ない時代だが
こんな時代だからこそ我が子に彼のような、教師に出会って欲しいと
思う。心から自分を愛してくれる先生に。

熱い男の家とユニーク教育法

そこは、ダンボールの国だった。

クラスの男女7、8人で熱い男の家にアポなしで押しかけた。

先生には女の影は全く無かった。

休日に押しかけても、絶対に家にいると信じて私達はバスに乗り
駅から30分かけて歩きたどり着いた。

熱い男は...いた。
そして、意外な程喜んで私達を招き入れた。
部屋は、独身男の1人暮らしとは思えないくらい
綺麗に片付いていたが なにしろ、ダンボールの国だった。

TV台も机も棚もゴミ箱もダンボールで作られていたのだ。

そして、そのダンボールはすべて
カレンダーの裏の白い部分で覆われて

自作のポエムと、自分の似顔絵と、例のサインが描かれていた。

ポエムの内容を憶えていないのだが

「花のように生きる俺」とか
そんな内容だった(笑)

そんなとんでもない家具を見つけてしまった私達は
のたうちまわって笑っていたのだが
熱い男は気を悪くすることもなく、そんな私達を目を細めてみていた。
さんざん馬鹿にしていたのに、今思えばなんて心の広い男だろう。

女の影もなく、モノを書く事が好きだった先生は
あのダンボールに座り毎日日記の返事を書いていてくれたんだな...
と、今となれば胸が熱くなるのだが。
私達を担任した3年間、一日も欠かさず続けられた日記。

30人全員が、最低でも大学ノート一枚分の日記を書かされて
先生は全員に
それ以上の文字数で長い長い返事や、感想を書いてくれた。

しかし...
あまりにも一生懸命書いていた熱い男は、とうとうその返事を
要求しだした。


日記→先生のコメント→そのコメントへの感想

こんな事を私達は毎日続けたのだ。

お陰で、みんな文章を書くことや漢字にやたらと強くなっていった。
なぜなら、漢字でかける単語は習っていなくとも辞書で調べて
必ず漢字で書かされたのだ。
醤油や薩摩芋、紫陽花や鰊
こんな漢字が入っている小学生の日記はなかなかなかっただろう。

この男が担任になってからの3年間
私達は鉛筆削りを使ったことがなかった。
それぞれに専用のナイフを購入させて
毎日自分の手で削ることを徹底させた。

アスペの例に漏れず超不器用だった私は
手を切ったり皆のようにうまく削ることが出来なかったのだが
そのうち どんどんコツを掴み
卒業する頃にはまるで鉛筆削りで削った鉛筆のように

ナイフの削り跡が全く残らない程、ツルツルに削ることが出来るようになっていた。

この時に、徹底して教え込まれた技は
歯科医院で働いていた時にとても役に立った。

私は、歯石を取るのも仮歯を作るのも
どの歯科に行っても一番上手だったのだ。

冬が終わると田植えをやらされたり
切り株だらけの山の中を綺麗に耕して1から畑を作らされた。

この先生に出会ってから3年後の私達は
とんでもないたくましい野生児に成長していた。

私は少しでも手や服が汚れるのが嫌だった。
田んぼのヌルヌルに素足を入れる感触がとても嫌いだった。
でも、やらなければならなかったのだ。

そして、私はその全てを克服していった。

この男は、自作の賞状を不定期に渡してくれた。
数え切れないくらいの賞状をもらったが、今でも持っている
何枚かの賞状の中に

鉛筆削るの上手で賞

嫌いなことを進んでやったで賞

がある。

熱い男は本当に1人1人をよく見ていた。
こっちが悟られまいと思っていても
この先生には全てお見通しだったのだ。


今回は、熱い男から教えられたことをほんの一部ですがお送りしました

熱い男のお仕置き

熱い男シリーズも4回目。
本日の記事は血も涙もないお仕置について。

この男の厳しさときたら半端じゃなかった。

昔の先生ならよくやってた体罰も、日常茶飯事。
前の記事でも少し触れたが、連帯責任が大好き!
朝の会や帰りの会が大好きで
ここでは誰かがやった悪い事を徹底的に追究するという
文化大革命的な吊るし上げがほぼ毎日行われていた。

私もこの会の主役になった事が何度もある。

クラスのある女の子の家に私の友達が遊びに行った時

庭に(すみれのバカ!)と書かれた
アイスの棒が落ちていたそうだ。(なんじゃそりゃ...)

そこでクラス全員が自分の意見を述べるのだが
たいていは「かわいそうだと思います」だった。
でも中には

「僕も、すみれが嫌いなので同じ気持ちです。でも庭に捨てるのは良くないと思います」

なんて爆弾発言もあり
ミラクルショックを受けたりするのだ…。

それは、すみれのバカと書かれた事より
ダイレクトに胸に突き刺さる。

このように、初めから加害者が特定されている問題はまだ良かった。
加害者が特定されない事件が起きた時…

たとえばここに落書きした犯人は誰だ!と聞いても
誰も名乗りでなかった場合…たいてい連帯責任が適用される。

その恐怖の連帯責任は、まず正座から始まる。

そして、全員に目をつぶらせて

「今、正直に名乗り出れば先生は怒らない…
みんなに知られる事もない。やった者は手を挙げなさい…」

お決まりのセリフに続くのだ。

そんなセリフを穏やかに言ったところで

みんな薄目開けてるし...
怒らないなんて言っても絶対に怒るのだな...

って誰もが知ってたから(笑)
十中八九、手なんか挙がるはずもなかった…

正座の時はまだ良かった。
これがひどい時は爪先を60度ほど開いた状態で踵を上げさせられる。
そのまま静止で、目をつぶる。

犯人が手を挙げるまでそのままである。
フラフラして足の感覚がなくなるが、それでもジッと耐える。
動いたら、棒で気合を入れられる。(座禅風味)

それでも犯人が名乗り出ないと
30人が軍隊式に校庭を人数分30周走る事となる。

追いぬき走ってやつもあった。

これは一番後ろの人が前を走る29人を
ダッシュで追いぬき先頭へ行く。
また後ろの人がダッシュでみんなを追いぬき先頭へ…
これを延々繰り返す。


心臓が口から出るとはこの事だった。

普通に走っても200mのトラックを30周はキツいものです。
それをダッシュでなんて…

今考えても、恐ろしいペナルティだ。

そのうち誰もが名乗り出ない犯人よりも
鬼のような熱い男に怒りの矛先を向けた。

走りながら、男がよそ見をしている時に一斉にアッカンベーしたり
バーカ!バーカ!って言ったり
あいつムカツク~!結婚できないゴリラ男!

小学生の私達が思いつく限りの悪口を言い合った!
でも、そのうちそんな元気もなくなり、黙々と走るのだけれど…(笑)

共通の敵は団結には不可欠である。
遅れを取ったものを皆で助け、励ましあう。

みんな声を出すのも辛いのに

「がんばれ!がんばれ!あと○周!」と何度も励まし合った。

何の為に走っているのかもう皆、どうでも良かった。
走り終わった後は、涙が出るくらいの感動と、爽快感があった。

「で?犯人は誰なの?」なんて、思い出しもしなかった(笑)

ビンタや、飛んでしまう程の衝撃がある
お尻叩きは毎日のようにあった。
頬には手の痕がクッキリ残る。 でもそれなら、一瞬で終わる。
みんなの前で、辱めを受けさせる罰が連帯責任の次にキツかった。

ある日の全校集会でのこと。

校庭にて、発表会に向けての校長先生の説明が行われていた。
その後、いつものように軍隊行進の練習が始まるのだが
校長先生の話の途中で、事件は起きた。

どんな話をしたのか、ふざけていたのか、おぼえていないのだが
熱い男がすっ飛んできて、私と友達2人を張り飛ばした。
そして、式台の前に並べられ
全校生徒の前で、なんやらお説教をされたと思う。

女の子3人がそんなことされたら
それだけでも消えたいくらい恥ずかしいというのに

この男は、そんな生ぬるい男ではなかった。


お前ら!そんなに喋りたかったらな~ここで喋ってみろ!!


その学校の校庭は広かった。
その広い校庭の端と端に私の友達が1人ずつ配置された。
東の倉庫前に、Rちゃん。西のプール脇にYちゃん。
そして...私は...


その間をとって、校庭のど真ん中!

私も端っこがいい!!と泣いて訴えたが聞く耳もたず...
「ここから、話してみろ!」と冷たく言い放ち、男は去っていった。

私が校庭のど真ん中に正座しているのに、行進が始まった。
普通の行進と違い、トラックを回るだけの行進ではない。
複雑に入り乱れ、最後に1つになるという動きだったため、
たちまち私は、行進の渦に巻き込まれた。

私をみて吹き出す者

見て見ぬフリをする者

哀れみの目で見る者...

色々だったのだが
一番辛かったのは私の弟と妹が私の前を通るたび
顔から火が出そうなほど真っ赤になり
泣きそうな顔をしていたことだった。

家に帰って、親に言いつけられたのは言うまでもない...

恥ずかしい罰といえば、もう1つ。
このクラスには特別席という、スペースが用意されていた
なんてことはない、教壇の前に座り黒板に背を向けて
みんなと向かい合って勉強するだけである。

それも、一日、二日の話ではない。
数ヶ月にわたりこの席に座ることもあったのだ。

お喋りが多い、授業に集中していないなど
理由はそんなところだったが。

熱い男から

はい!特別席~

と、ご指名が入るや否や
熱い男のコバンザメの男子数名が立ち上がり
指名された生徒の机と椅子を教壇の前へ運んでいく。

クラス中が、恐怖で凍りつく一瞬だった...

私が指名された時、頭の中が真っ白になった。

ただ、その席に行くのだけは断固拒否した。
泣きじゃくって机にしがみついていた
(今、思えば余計恥ずかしい事してた)

クラスで一番背が高く、力も強かった私の机を運ぶのには
男子の力では 無理だった。 そこで、熱い男が加わった。
私の手を引き剥がそうとしたが、私は意地でも離さなかった。

私はとうとう机にしがみついたまま、引きずられるように
前に出されてしまったのだ。

しかし、慣れとは恐ろしい。

数日経つとその環境が恥ずかしいとか思わなくなる。

黒板記憶に頼っていた私は
黒板を振り返って見ることがとても、辛かっただけで
たちまちいつもの自分に戻っていた。

ある日のこと...

私は、一生懸命消しゴムのカスを繋げていた。
それはそれは、すごい集中力で、長く長く繋げていたのだ。

後ろに、鬼の形相の熱い男が立っていることも

クラス中が私に注目していることも気がつかないくらいに...

すみれには、スペシャル席に行ってもらおうか...

熱い男が指した先は、ベランダだった....

そこは雪国だった。

私は、こんなとこに出たら死ぬ!と猛抗議してみたが

コートを着ればいいだろう

とあっさり言われ、机ごと放り出された。
外は想像以上に寒く、校庭で雪合戦をしていた妹がみんなに

また、お姉ちゃん怒られてるね~

とからかわれていた。
そして、重大なことに気がついた。

黒板が見えないのだ!

内窓が結露しているため
外からゴシゴシしても教室の中は全く見えないのだ!!

どうしたらいいかわからずパニックになった。
さすがに、ベランダからはその日一日で開放されたが、あの時の
寒さと、屈辱と、心細さは今でもはっきり憶えている。


本日は熱い男、いい所なしのお仕置き編でお送りしました。
このシリーズはあと2、3回続きます。

熱い男の授業

熱血先生は、勉強よりも、遊びに力を入れていた。

ただでさえ、普通の学校以上に体育の時間が多く
学習時間に限りがあったにも関わらず
やたらと校庭で熱い男が子供の頃にしていたという
訳のわからない鬼ごっこをさせられていた記憶がある(笑)


その他にも
伝言ゲームみたいなものや、ジェスチャーゲームの類
フルーツバスケット、ハンカチ落としなど
ありとあらゆる遊びをさせられた。

夏休みには電車を乗り継ぎ先生の故郷にクラス全員で
連れて行ってもらったこともあった。

学校にはちょっとした山があり
そこには丸太の椅子やテーブルがあったので
青空教室と称しそこで授業をすることもあり
冬になると、その山でソリやスキーをさせてくれた。

スキー場のように整備された広い道があるわけでもない。
だから、ソリやスキーは結構危険が伴っていたと思う。
そこら中に木が生えているから
ぶつかって怪我をする可能性が高かったからだ。

ただ...当時の私達はそんな事はおかまいなしだった。
スリル満点のスキーを思う存分楽しんでいた。

私は、怖がりだったのでいつもビクビクしていたが
馬鹿にされるのが嫌でいつも平気を装っていた。

そんなある日、熱い男がとんでもない遊びを提案した!

クラス全員で(30人程)前の人のお腹に自分のソリの紐をかけて
繋がって降りてみよう!と言い出した。

どんな結果になるのか、想像もできなかったので
とりあえず挑戦してみた。

30人で繋がったソリはとんでもなく蛇行する。

麓まで無事に降りれるのは、2人くらいのもので
次々に振り落とされていくのだ。

先頭は毎回、選ばれた勇気ある人間に任された。
木々の間をうまくすりぬける運転技術が必要だった。

毎回、熱い男はこの並び順を考えては試し
1番理想的な並びを編み出した。
さすがに考えぬいただけあり、途中で振り落とされずに
麓まで行ける人数はどんどん増えて行った。

ただ、悲しいことに...
熱い男がどこの位置に入っても必ず
この男で切れてしまうのだ。

せっかくいい線いってたのに
必ずこの男が振り落とされてそこで終わりになってしまう。

熱い男の後ろにいた子供達は、一斉にブーイングだった。

空気を読んで、一度や二度抜けてみたらいいものの
この男は絶対に抜けなかった。

なぜなら、誰よりもこの遊びが好きだったから...(笑)

自分のソリに普通に名前を書けばいいものを...

もしくは「先生用」とでも書けばいいものを・・・
 
この男は...この熱い男は...

自作のサインを書いていた。

そのサインは
当時のアイドルブームに乗っかり編み出したのだろうが
かなり安易な、ちょっぴり間抜けなサインだった。
(知る人ぞ知る、マッチこと近藤○彦の
あの簡単な方のサインに近いものがあった)


彼は、その間抜けなサインが書かれたソリを抱えて

「いや~うまくいかねえべ~」
と雪だらけになりながら
みんなに置いて行かれまいと必死だった(笑)

しばらくしてさすがに、みんなの空気を読んだ熱い男は

「よっしゃ~!先生は一番後ろに行くぞ~!
すみれ!お前は先生の前だ!!」

と、私を後ろから2番目の位置に配置した。
そして、後ろから小さな声でこう言った。

「怖いか~?本当に怖くて駄目だと思っ

たら降りていいぞ。皆にはお腹が痛くなったって言っておくから」

私が怖くて怖くてしょうがなかったのを見抜いていた。

しかも、それをみんなに悟られないようにしていたのも
熱い男にはわかっていたのだ。
人一倍はしゃいで、雪の中に放り出されてばかりの先生に
そんな余裕があった事に、すごく驚いたことを憶えている。

大丈夫!
あんまり大丈夫ではなかったが、なんだか頑張れるような気がしてきて
私はそんな風に答えたと思う。

「よっしゃ~!女は度胸だぞ!
すみれ ~。すみれの事は先生が守ってやるからな!」

熱い男のテンションは最高潮だった。ちと寒いが...

しゅっぱ~つ!!

熱い男の、ひときわ大きなかけ声と共にソリは出発した。

出発した瞬間...フワッと私の身体が軽くなったような感覚があった。
恐る恐る振り向いてみると...

熱い男の間抜けなサインが

書かれたソリだけが

カラカラカラ...と私の後について来ていた


その時に、最初で最後の全員で麓まで降りる快挙を達成したのだった。
その時の喜びは大きかった。何ともいえない達成感があった。

熱い男は、守ってくれなかったが(笑)そう言ってくれた事は
わたしにとってすごい勇気となった。

熱い男の影響力

熱い男は、人にあだ名を付けるのが好きだった。

それまで、おばあちゃん先生の担任ばかりで田舎者の私達は
それなりに平穏に暮らしていた。

友達の名前を呼ぶときは、下の名前で○○ちゃん、○○君。
それ以外に人を呼ぶ方法なんて、おそらく誰も考えていなかったし
一瞬あだ名らしきものがついた人がいても、浸透することはなかった。

ある日のこと...

熱い男がみんなの前でこう言った。

「おい!すみれ!お前の名前は全部点々がつくなぁ!」

そして、いや~こんな事に気づいた俺って面白い!
みたいな顔で得意になっていた。

いま思えば小学生以下の思考能力だ...全くセンスがない。

あの男の{私の名前にはすべて濁音がつく!}発言で、クラスは一気にヒートアップ!
他に濁音がつく人を探し、濁音がつかなくても無理やり濁音にしてしまい、たちまちいくつかのあだ名が誕生してしまった。

そのあだ名を基本に改良を重ねられ
新しいあだ名が生まれたりしていった。
そのうちに、クラス全員がお互いを呼び捨てで呼ぶようになった。
知らず知らずのうちに、皆に一体感が生まれていったのだ。

25年経った今でも、この時の濁音のあだ名で普通に呼ばれている
子がいる。中学へ行っても、高校へ行っても...(笑)
本名はとても綺麗な名前なのだが、あまりにも浸透しすぎて
あだ名が本名だと思う人がいた位。

その友達の周りには、いつの時代もたくさんの人が集まっていた。
それはひとえに彼女の人徳なのだが
(あの人苦手とか、ムカツクとか彼女を悪く言う人はただの1人もいなかったから。普通に生きててそんな人はいないと思うが、本当にそうだった。)
あだ名があまりにも親しみやすかったから
更に人気に拍車をかけていたように思う。

本人はきっとそんなに気に入ってはいなかったと思うのだけど
心の広い人だったから、いつもニコニコ受け入れてた。
そんな彼女をみんな親しみを込めて、熱い男のつけたあだ名で呼んだ。
くだらないきっかけで、適当につけたあだ名が未だに影響しているって
当の本人は知っているのだろうか...(笑)

私は、この男のお陰でどれだけ人前で屈辱を受けたかわからない。

屈辱という言葉は適当ではないが、この頃の私にとったら
屈辱としか思えなかった。
思い出す限りの一番最初の屈辱がこの濁音事件だった...

それまでの私は
今のモモと一緒で人に見られたり、笑われたり
からかわれたりすることに耐えられなかった。
馬鹿にして笑っているわけでもないのに
笑われたら100%馬鹿にされていると思い込み
辛くて苦しくて、涙がでたり突然怒り出したこともあった。

そのくせ 人の事は親しみを込めて笑っていた。
多分、人一倍笑っていた。

馬鹿にして笑っていたわけじゃない。
何だか愉快で好感を持ち笑っていたのだが
その気持ちを自分に置き換えて考えることは、全くできなかった。
だから、人の事は笑うのに
自分が笑われると気分を害してしまうという
とてもからみづらい人間だったのだ。

それなのに、この男ときたら...
私ばかりをからかうフシがあった。
その度に私は怒りに震え、時には泣いて抗議した。

そんな私は、卒業する頃には人に笑われる事に
喜びを感じるまでに成長してしまったのである。
それは、単に人前で屈辱を受け続けて慣れてしまったからだろうか?
確かにそれもあると思う(笑)

でも、ちょっと違っているかな。

私は、この先生にあらゆる自信を頂いた。

たくさん、怒られたけどその倍褒めてもらった。
たくさんからかわれて、笑われたけれど
先生という立場にも関わらず自分をからかい、笑うことを
生徒に許してくれていた。
何しろ、どんな話でも聞いてくれたし
一日中話しかけていたように思う(笑)

調子に乗りすぎると、ゲンコツが飛んできたが、ゲンコツが飛んで
来ない範囲で先生とコミュニケーションを取る事を覚えて行った。

調子に乗りすぎるか、無口になるか...
間がなかった私だったがこの時の経験は今でも生きている。

今でも、調子に乗りそうな時は
「おっとそろそろ、ゲンコツがくるぞ!」と自省する事があるのだ。




エピソードはまだ続きます。

熱い男との出会い

熱い男との出会いは私が小学校4年生の時に訪れた。

その時彼は22歳。
名前はどう考えても、女性の名前。

大学出たばかりの若い女の先生がくるよ~!っ
とクラスメイトの殆どが、親からそう聞いていた。

私の田舎で教師になる方はたいて地元のとある大学出身なのだが
彼の出身校は、違っていた。
某有名国立大出身の教師だったのである。

親たちは、あんなすごい大学の先生なんて
どんないい先生なんだろうね~

きっと、あんたたち頭が良くなるねえ...

昭和の時代の田舎の母達は、単純だった(笑)

もちろん私達もどんなに綺麗で
どんなに聡明な先生がくるんだろう...
期待で胸がはちきれそうだった。


ドアを開けて入ってきた超エリートで超美人の女の先生は...


男だった...

それも、男の中の男だった。


筋肉質

ホームベース型のカオをして



おまけに角刈りだった...!




どんな挨拶をしたのかは覚えていないが

生徒一同がまるでゴリラを見つめるように
彼を凝視していたことと
彼が、黒板に書いた自分の名前の字が
とんでもなく下手くそだったこと
しかも斜めに曲がっていたことを鮮明に記憶している。

しかし、私達はこの先生をひと目で気に入った。
彼には人を惹きつけるカリスマ性があったのは間違いない。

彼が赴任してきてひと月程経った頃だったか...
クラスの男子が、「先生なんで今日は自転車?~。」と聞いた。
みんな、ボロボロの自転車に乗った先生を目撃していた。
それまで熱い男はなんと!10kmの道を毎日歩いて往復していたのだ。

「昨日ゴミ捨て場で拾ったんだよ!ワッハッハ~」

他の子がどう思ったかはわからないが、私はこの時衝撃を受けた!
母も祖母も教師だった私には
教師というものの理想像が出来上がっていた。

教師がゴミ捨て場で物を拾う??
そんなこと想像ができなかった。
錆び錆びの、その当時でもかなりの年代物。

どんな貧乏な人でも[その自転車だけは...勘弁して下さい...]
と拒否するような代物に嬉しそうにまたがって通勤してくる
角刈りの先生。

私の、思い込み、こだわりがこの時ひとつ減った。
世の中には色んな人がいると認識した。
そして、クラス一同が熱い男に更に好意を持った
出来事であったのは間違いない。

ちなみに先生がこの自転車を手放したのは
初ボーナスの時だったと記憶している。
自転車の代わりに原付を購入したのだ。
そして、念願の車を買った頃には私達は中学生になっていた。

この先生に出会わなければ、今の私はなかったと断言できる。

この先生によって私は、あらゆる事を学び
現在人並みに社会生活を営んでいる。
私とこの先生との3年間を一度には語れないので
少しずつ記事にしていきたいと思う。


まずは、出会い編でした。

奈良の鹿

奈良公園にて...。


観光客が、しかせんべいを持っていると
たちまち鹿の大群に囲まれてしまいます。

あまりの迫力に子供はもちろん、大人でも引いてしまいます。
本当はあっちの小さい鹿にあげたいのに
ちゃっかりものの同じ鹿にばかり奪い取られる鹿せんべい...

そんな経験をしたことがある方、たくさんおられると思います。

ここで疑問なのですが


この貪欲な鹿達は何故
鹿せんべい屋さんを 襲わないのでしょうか?



いいえ...襲うどころか、近くに寄りません。

そこに、自分達のご馳走がある事は知っているはずなのに
見向きもしません。

奈良公園に隣接する春日大社には
鹿せんべいの無人販売をしていますが
こちらにはちゃんと金網がありますし
鹿達もクンクン臭いを嗅ぎに やって来ます。

私が見たのは、ほんの数回。
しかも20分くらいずつの時間ですから
それだけで断言はできませんが
あのお店の周りには、結界が張られているのでしょうか?

ここでせんべいをもらう事は出来ないと、知っているのでしょうが
私にとっては毎回興味深く観察してしまう小さな疑問なのでした。


追記:鹿の角って少しだけ柔らかくて、とっても暖かいって知ってましたか?

ビバ!ココセコム!

あれはマルが小学校へ入学して、ひと月経った頃の出来事。

いつもの集合場所へ{うちの下にある公園。歩いて数秒}向かった。
はじめは6年生が迎えに来てくれていたのだが
1人で出るようになってから 何日かが過ぎていた。

いつもは、窓から見送っていた私がその日に限って見ていなかった。

出発時間を10分程過ぎた時間に、インターホンが鳴った。

ドアを開けると4年生の男の子が二人。尋常じゃなく焦っている...



マルちゃんがまだ...*|\/%$あんな~あんなぁ....


マルちゃんがぁぁぁ~\:*%#




全速力で走って来たので{うち3階}息が切れているのと
焦っているのでなかなか話が見えない。

しかもメガネをしているその男の子は

漫画みたいにメガネを斜めにずれてしまっているのを治しながら手がブルブルと小刻みに震えていて

私にはそれだけで、何か大変な事が起きたと理解できた。


「マルがどうしたの?怪我した?もしかして公園にいないの?」

メガネの男の子に代わり、もう1人が答えた




いない!いないんです。家にはいない



ですか?さっきから皆で探しているんだけど...


(ハアハア)カクカクシカジカ...





その男の子が説明してくれている間に、私は頭の中を整理した。

モモがいなくなるならともかく...
マルがいなくなるということは考えにくい。

普段から1人では絶対に出歩かない事を言い聞かせて
十分わかっていたはずだからだ。

だからこそ、今は私が落ち着いて行動しなければ..

「うん。わかった。大丈夫よ!教えてくれてありがとう。皆には迷惑かけたね~あとはおばちゃんがするから、学校に行くようにみんなにいってくれる?」


それからすぐにやるべきことは決まっていた。


マルの学年は女の子の数が極端に少なく下校時も女の子1人。
必ず男の子と帰ってきてはいるが 、いつ何時1人で帰ることに
なるかもしれないと、月額500円のココセコムを利用していたのだ。


まずは幼稚園の集合時間が来ているモモを連れて公園に出た。

足が地についているのか、浮いているのかわからないような感覚。
歩きながら、セコムに電話。

正直、電話をするだけでもかなり手間取った。

手足が異常に冷たくなっていて、手が痺れ震えていた。
電話のボタンがどうしても押せないのだ。

とても焦っていた。でも簡潔に説明しなくては...
ちょっとの時間が命取りになるような気がした。



子供がいなくなったんです ...


「わかりました。ご契約番号わかりますか?」


相手は朝も早いというのに爽やかで、とても落ち着いていた。

番号を伝えた後


まず、私の知りたい事ですが


今いる場所の他に、徒歩で移動しているのか


車で移動しているのか


を知りたいんです!


そういうのってわかるんでしょうか?



と聞いてみた。

すると、しばらくして...


「わかりましたよ。今、○○駅の近くです。」


駅!?


駅は学校の方面にあることはあるが
マルの通学路とは全く違う道に行かないと、そこには出ない...

祈るような気持ちだった。


もし車で移動していたとしたら...
次は警察の力を借りなければならないだろう。




「...わかりましたよ。お子様は今、徒歩で移動していると思われます。」


...徒歩..それだけでも、救われた...

だんだん落ち着きを取り戻してきた私を励ますかのように
セコムの方が続ける。。。

「今、住宅地に入ってます。○○さん宅を過ぎました。今○○さん宅前...ご存知ありませんか?」


だんだんと、私の知っている名前も出てきた。


「あ!知ってます。
その付近なら学校のすぐ傍まで行っているはずです。」


幼稚園の集合場所でそんなやり取りをしていたため、私の会話を
心配そうに聞いていた一人が、そのセリフを受けて
すぐに学校に連絡をしてくれた。

教頭先生が門の外に出てくださり、マルの無事が確認されたとの事

セコムの担当者に涙ながらにお礼を申し上げて
心配してくれたママ達にもお礼を言った。

みんな、口々に

セコムでそこまでわかるなんて、ちょっと驚いたよね?

車にのっているかわかるなんてすごくない?

私やったら、まず警察に連絡しちゃって騒ぎ大きくするところやったかも...

みんなの言っていることに、私も同感だった。


何より、担当者のプロの対応に助けられた。
お名前もをお聞きする余裕がなかった事を後悔している。





【追記】:マルは集合場所に、一番初めに着いたらしい。その日に限り
皆が来るのがいつもより遅くて、自分が遅れた!と焦った
マルは、走って走って追いかけていたらしい。

いくら走っても、自分の集団がいないとわかったマルは
1人で不安になり、下を向いてトボトボ歩いていたら
反対方向の駅に出てしまったそうな..
でも、その地域の集団に助けていただき
そこの六年生の班長さんと、ちゃっかり手を繋ぎルンルンで登校して来たそうです。休み時間に遊ぶ約束までして(笑)遊んでもらったそうです。

知らせに来てくれた優しい4年生の男の子にも大感謝でした。

あだ名の話

マルが、学校の男子にたまご
と呼ばれているそうだ。


「むかつく!!」


と本人はいうが、可愛いじゃないの。


ちなみに、「こうすけ君」は「ひこうき」
「しゅうすけ君」は[しゅうまい]
「やすかわ君」は「やきにく」だそうだ。

やすかわ君なんてやしか合ってないし...

どれもこれも単純で、ひねりもなく子供らしいと思うのだけど
結構子供にしたら、深刻な悩みのようで...

私の、小学校のあだ名はどじ

私が、あまりにもおっちょこちょいで間抜けだったから
昨日の記事のあの担任が、つけたあだ名だった。

このあだ名を一部、中2の頃まで引きずったが
不思議と嫌じゃなかったな。
ただ...私が1人で窓全開のバスに乗っている時

歩道からあ!どじだ~!バイバ~イ!どじ~!バイバ~イ
と、大声で言われた時は気まずかったなぁ。

そんなエピソードを盛りつつ...
マルに

「ね!ドジより、ましやろ~?たまごちゃんなんて可愛い♪
お母さんは羨ましいぞ~!」
なんて慰めてみた。


そこで、近くにいた旦那が口をはさむ。




「小学生のつけるあだ名は可愛いのう~」
お父さんにもあだ名があったぞ...(遠い目)





「たまごよりましやろ?たまごが、一番可愛くないもん!」




「フッ...」(旦那遠い目で、なぜか余裕の含み笑い...)




「お父さんはな~うまっていわれたんや...」(さらに遠い目)





「ウマ?」


うま大




「馬?」







うま大




ウマ~??






馬だって~!!ヒィ~(笑)
ただの馬!だって~アハハハハ~
キャハハハ~!


マルが言った。

「マルはたまごで良かったよ。たまごの方がまだマシやし、人間だもん。動物は嫌やもん!」


いや...ちょっと待て...たまごは人間じゃないぞ。


でも、せめて馬ちゃんとか、馬っぺとか愛のあるひねりはなかったのか??(笑)


ちょっと面長なだけに妙に生々しいあだ名である。


軍隊式の小学校

昨日の記事の後、バランス感覚について考えた。

私が、エスカレーターが苦手なのはバランス感覚の問題なのかもしれない。

でも、バランス感覚ってなんだろう...?

私は、自転車はもちろん一輪車も乗れる。
竹馬もできるし逆立ちもできる。
でも、浮き輪に座ることができなかったり
エスカレーターが怖い。バランス感覚がアンバランス(笑)

それを考えていて、ひとつの結論に至った。

私の小学校が私の療育そのものだったこと。間違いない!!

私の小学校の話は詳しく話す事ができない(すぐバレル)
ある教育で、とても有名とだけ記しておきます。
その学校の、教育は軍隊式で(行進大好き)
勉強以外の(笑)色んな事に力を入れていた。

特に体操はすごかった。
これも、詳しくは話せないのだが、全校生徒が運動ができるできない
なんて関係なく、させられていたし、レベルもかなりのものだった。

いきなり、マットも引いていない校庭で逆立ちをさせられ
背中を打って呼吸困難になったり(笑)
その学校では常識の、馬とびは一般的な背中を跳ぶスタイルではなく
ブリッジをした人のお腹を跳んで行く。

中学の部活で、馬とびをした時に、なぜか私と同じ小学校の子だけ思わずブリッジで待機。さんざん笑われた苦い思い出がある。


出来ないなんて言えない状況だったから、太ももが擦れて血がでても
練習はやめられなかったし
鉄棒もプロテクターをしてもまめがつぶれた。

授業の起立、礼の際にはつま先をハの字に開き
かかとを限界まで上げなくてはならない。

そのまま静止し、先生の指示があるまでその姿勢を崩してはならない。これで絶対かなりのバランス感覚が鍛えられたと思う。

そういえば、その学校では、相撲大会は逆立ち相撲
リレーといえば、一輪車リレー
あ!竹馬リレーもあった(笑)

ことごとく、常識とはかけ離れた教育だった。
とにかく、朝から晩まで鍛えぬいた。

出来なくても出来るまでやらされたし
常に連帯責任で何かトラブルが起きる度
学年の人数分を全員で走った。
しかも、走るときも行進のときのように並び、足をそろえて掛け声と
共に走るのだ。

もちろん色んな場面で脱落者はいるが、脱落者を皆で助け合った。

忘れ物をしたら、その生徒の家が3km離れていようが4km離れていようが、必ず取りに戻らされた。

他にも書きたいことはたくさんあるけれど、公開できない内容なので
残念です。

そのような環境で、しかも担任は新任の元高校球児。
4年~6年までの3年間をその先生が受け持った。
森田健作と大仁田厚をたして2で割ったような熱い男で超体育会系。

ビンタをされたり、屈辱的な罰をさせられたり、鬼のような男だった。
連帯責任が大好きで、そんな時には後ろから蹴りたくなったものだ!

でも、生徒の事を1人1人愛してくれて毎日の日記には、クラス全員に大学ノート1ページ分の返事を毎日欠かさず書いてくれた。

誕生日には、自作のカードと(もう高学年やったのに)
お姫様抱っこで学校中を走り回ってくれた。(男子はおんぶか肩車)
廊下は走るな!なんて、貼紙は無視だった。

学校中を回ってもらうのが本当に楽しくて、誕生日が待ち遠しかった。
私達はみんな、この熱い男が大好きで心から信頼していた。
この型破りで破天荒な先生については、仰天エピソードがありすぎて
書ききれないので、また別の機会に記事にしたいと思う。

私は、この学校に入らなかったら多分もっとひどい二次障害がでていた
に違いないと確信している。
ここで徹底的に、姿勢正しく行進させられ、出来なくても努力してやりぬく事
集団行動、助け合いの精神を叩き込まれたお陰で
人並みの運動神経と、社会性を身につけられたに違いない。

もしかしたら、人並み以下かもしれないが(笑)
社会に出て働いて、子供を二人も授かり、周りの人にも恵まれて
それだけでも、十分幸せだと思う。

ここでまとめると、これはあくまでも私の持論ですが
自閉圏の子に、体操をさせるのはいいかもしれません。
あ!でも様々な療育で、マットや平均台をさせていますから、
これって、本当に科学的根拠があるのかも...。

私が苦手なもの

よくここに来てくださるぴよこさんの記事
[長男とおでかけ]を見て、思わず息子さんに共感してしまいました。

(残念ながら、現在ぴよこさんはサイトを閉鎖されております)

なぜなら、私も電車とホームの隙間が大の苦手。

駅によってすごく空いてる駅ありますよね...
あそこをまたぐには、どんなに混んでいても心の準備が必要な私。
電車の中から自然な歩調で出る事はできません。

あの手前で一度足を揃えてから、決死の覚悟でまたぎます。
たまに、ラッシュ時乗客に押されるがままに
渡ってしまう事がありますが、後でちょっと怖くなり
ドキドキします。

1人でもそんな調子なので、子供が歩くまでは
電車でお出かけなど、できませんでした。
ベビーカーを押して、もしくは子供を抱いて
あの隙間をどうやって渡ればいいんだ~!

それに、私はエスカレーターも怖い!!
そんな事いったら、変人扱いされるので涼しい顔で乗っているが
あんな恐ろしいものはない!!
高所恐怖症じゃないのよ。
むしろ高い所は好き。
ジェットコースターでも何でもござれの
スリル大好き人間でございます。

じゃ、なぜ苦手と申しますと...
あの、乗り降りする所が大嫌い!
特に、降りる所!階段が吸い込まれて行くのが怖い。

乗り降りのタイミングも未だにつかめない。
ヒールなんか履いた日には、絶対無理。

私、健康の事考えておりますので、階段で行かせて頂くわ~
ホホホ!

あれも、よくベビーカーを器用に乗せて
しかも後ろ向きに乗っている人いるよね~
尊敬しちゃう。
子供と手を繋いで乗るだけで命がけの私です。

あとは、電車のつなぎ目。これはかなり怖い。

今の電車はそんなに怖くないけど
昔のつなぎ目ってホントに怖かった。

あの、蛇腹みたいなアコーディオンカーテンみたいなのが
ウネウネ動いているのが怖いのなんのって。

しかもあの付近って独特の臭いと
電車の音がひときわ大きく聞こえるし
視覚、聴覚、嗅覚すべてがノックアウト。

中学生の頃だったか、中国に行った時
街を走るバスに仰天した。

今、同じようなバスが走っているかはわからないが
当時私が見たバスは



バス







日本を走っているバス2台分が、蛇腹で繋がれていて
それはそれはとっても長いのだ。
すごく長いので蛇腹の部分は、ウネウネしまくっていた。
とても珍しいバスだったので、見たかったし写真も撮れば良かったのだけど、やっぱり蛇腹が怖くてどうしても正視できなかった。

他にも苦手なものはたくさんある。
カーステレオやテレビは聞こえないくらいでちょうどいい。
大きな音と、ごちゃごちゃした音は最も苦手。
人が、普通に聞いている音でも大きく感じる事は
しょっちゅうあってそんな時に、モモに質問攻めにあったり
姉妹喧嘩が始まるとパニックを起こす!

冷静に話なんて聞けない。思わず耳を塞いでしまう。
それこそ、ひっくりかえって泣いて暴れたくなってしまう(笑)
大人だから、我慢するけど。

ちなみに、私は興奮すると大声になるらしい...
というか、笑い声が大きいらしい。
興奮すると声の調節ができないのだが(笑)
たまーに、モモに耳を塞がれてハッと我に返る。

自分さえ良ければいいのか...私よ。




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